古代ギリシアの哲学者プラトンは、犬の知性を非常に高く評価していました。
彼は『気高き犬』を、『学ぶことが好き』で、『驚嘆すべき獣である』と表現しました。
わが家の犬たちの行動を見ると、ときにはプラトンに共感したくなることがあります。
ある冷たい雨の日、私はあまりに疲れて気分がわるく、犬たちをいつものように朝の散歩に連れていけず、少しのあいだ庭で遊ばせるだけにしました。
これはフラットコーテッドレトリーバーのオーディンにとって、受け入れがたいことでした。
その日の夕方、私が本を読んでいると、足元でカサコソ音がしました。
見下ろすと、オーディンが自分のリードをくわえてきて、床に落としたのです。
私はそれを拾い上げて、となりのソファーに置き、彼の頭をなでて『あとでな、オーディン』と声をかけました。
しばらくすると、また足元で音がしました。
オーディンが今度は私の靴の片方を運んできたのです。
私が無視すると、彼は急いで靴のもう片方もくわえてきて、私のそばに落としました。
冷たい雨がやまないので、相変わらず腰を上げようとしない私が、彼にはきっと鈍感で頑固に思えたにちがいないのです。
そのときでした。
オーディンがドアに駆け寄って、おなじみの声で吠えました。
それは、私の妻のジョーンが帰ってきたときに使う吠え声でした。
私は以前ニューヨーク市に何年か住んでいたので、ニューヨーカー特有の習慣を身につけていました。
自分が家で仕事をしているときでも、かならずドアに鍵をかけるというのもその一つです。
それは警戒の必要がない安全なカナダのアルバータで育ったジョーンには、うっとうしいことでした。
そんなわけで、オーディンが『ジョーンが帰りましたよ』と吠えたとき、彼女が雨に濡れながら鍵をまさぐり、私の不便な習慣にうんざりせずにすむよう、私は立ち上がってドアを開けにいきました。
私がドアまであと1、2歩のところまで行ったとき、オーディンはダッシュしてソファーまでもどり、リードを拾い上げました。
私がジョーンの車が帰っていないのに気づくよりも早く、彼は口にくわえたリードを私の手に押しつけていました。
彼の無言の訴えに、私は思わず笑ってしまいました。
一連の行動のあいだ、彼が頭の中でどんなことをつぶやいていたか、想像できる気がしました。
『散歩に行きたいんだ、だからリードを持ってきたよ・・・ほら、あなたの靴。だから散歩に行こう・・・これでよし、あなたがドアの前にいるあいだに、ぼくがリードをもってきたから、ねえ、散歩に行こうよ!』
これはもちろん、オーディンの行動に意図的な計画性があったと考えて、あれこれ推理をつけくわえ、心の動きを言葉にしたものです。
しかし、私の推理が彼の行動からはずれていないことは、たしかでしょう。
ついでながら、彼は望みどおり散歩に行けたのです。
『犬も平気でうそをつく?』スタンレー・コレン著より引用
こんな可愛いことされたらダレでも負けちゃいますね。