犬がいない家の中は、あまりにも静かです。
ドアの向こうで出迎えてくれる者もいないのですから。
1日中笑い声が絶えない、犬のいる日常・・・。
そんな尊い存在との触れ合いのない生活に、私たちは寂しさを募らせるばかりでした。
私たち夫婦は、かつて飼っていた愛犬たちと視線を交わしては、沈黙のうちに心を通わせたものです。
妻が料理の最中にフライ返しなどを取り落としてしまっても、すぐさま駆け寄って拾ってくれます。
年をとると、かがみこむことほど辛いことはありませんから。
犬たちは、人間の友人たちとはまた違った形で、私たちに寄り添ってくれました。
だれよりも早く私たちの心情を読み取り、気持ちを汲んでくれるのです。
そんな温かい思いやりを、私たちは懐かしく思い返していました。
小型犬を飼っているお年寄りたちを見るにつけ、自分たちは大きな犬を飼おうと考えるようになりました。
世話をするにしても、頭をなでてやるにしても、腰をかがめなくても済むでしょう?
そしてついに私たちは、夫婦ともに退職したのを機に、かねてからの念願であったゴールデンレトリーバーの子犬を飼い始めたのです。
私たちは彼女をボニーと名付けました。
愛情深く落ち着いた性格のゴールデンレトリーバーは、最高のペットです。
それにボニーは、これまで私たちが飼ってきたどのペットよりも体が丈夫でした。
年に1回の定期検診と予防接種以外では、ほとんど病院のお世話になったことはありません。
ボニーはすぐに、私と妻にとってなくてはならない家族の一員となりました。
新聞や郵便物を持って来てくれたり、私たち夫婦が別々の階にいるときは、メモ書きを口にくわえて伝言係を引き受けてくれたりもしました。
おかげで、老体にむち打ちながら階段を上り下りする回数もぐんと少なくなったものです。
ボニーがいてくれるだけで、老夫婦ふたりの暮らしがぱっと明るくなりました。
外出することもめっきり少なくなった私たちにとって、ボニーはかけがえのない友だったのです。
退職してから飼い始めたボニーとは、歴代のペットたちよりも多くの時間を過ごすことができました。
一緒に遊んだり、体をなでてやったり、またあるときはただ、じっとその瞳をのぞき込んだり。
ボニーは毎朝、私がまぶたを開けるよりも早く、ベッドの脇にやって来ます。
体をなでてくれとせがみに来るのです。
たっぷり20分から30分もかけて、私はボニーの全身をマッサージしてやります。
ボニーにとっても私にとっても、それは素晴らしい1日の始まりでした。
そして1日の締めくくりは、寝る前にしてやるボニーの歯磨き。
これもまた、欠かせない楽しみのひとつなのでした。
高齢な『親』である私たち夫婦は、近い将来ひとりぼっちで残されることになるかもしれないかわいいボニーの行く末についても、きちんと考えておかなければなりませんでした。
私たちのうちのどちらか、あるいはふたりに万が一のことがあったら・・・。
私たちは遺書にボニーのことをしたためておくことにしました。
幸い娘夫婦に相談すると、ボニーの世話を引き継ぐことを快諾し、私たちと変わらぬ愛をボニーに注ぐと約束し
てくれたのでした。
ボニーは年老いた私たちの生活に張りを与えてくれました。
ボニーと暮らし始めてから8年が経った頃、実姉との仲たがいをきっかけに、妻のマージョリーにうつの症状が見られるようになりました。
そしてマージョリーが自分自身の精神状態に気付くよりも早く、ボニーはそれを察知したようでした。
マージョリーの生活のリズムは少しずつ乱れ始めました。
ほとんど家の中にこもりきりで、2、3ヵ月は車で出かけることもありませんでした。
彼女は引き寄せられるように、三方に窓がある、日当たりのよい小さな裁縫室へと足を向けるようになりました。
取り付かれたようにキルトの製作に没頭するマージョリーのかたわらには、いつだってボニーの姿がありました。
マージョリーが裁縫室に向かえば、私がいくらボール遊びに誘ってもボニーは見向きもしません。
そして裁縫室で過ごすボニーとの穏やかな時間が、マージョリーの日常における大きな喜びとなり、心のよりどころとなったのでした。
マージョリーのそばでしばらく過ごした後、ボニーは階段を駆け下りて外へ出ます。
そして昼食の時間になると、『キッチンヘ下りておいで』という私からのメモ書きをくわえて、再び裁縫室へと舞い戻ります。
ボニーは、マージョリーに必要とされているのだと理解しているようでしたし、またその貢献度は計り知れないものでした。
マージョリー自信も、夫である私の献身や、お医者さんの助けや、牧師や家族の支えと同様、ボニーの温かい愛情が回復の大きな助けとなっていることも、身にしみて分かっていたのでした。
そんなボニーとの別れは突然やって来ました。
9歳と半年を迎えていたボニーは、亡くなったその日も食欲旺盛で、前の晩だっていつものように元気いっぱい階段を駆け上がっていたのです。
最後となったその日の朝、苦しそうに息をつくボニーを見て、私たちは初めてボニーの深刻な病状に気付きました。
近所の人にお願いしてボニーを1階まで運んでもらい、そして病院に向かうため車に乗せてもらいました。
私が電話で近所の人を呼ぶ間、マージョリーはボニーの頭の上に自分の頭を乗せ、その手で優しく体に触れていました。
息づかいがみるみる浅くなっていく中、ボニーは部屋に戻った私を見やり、頭をもたげてしっぽを2回振りました。
それを最後に、ボニーは生命の気配を消しました。
ボニーを獣医のもとへと連れて行くと、先生が車の中に横たわるボニーに歩み寄り、臨終を告げました。
マージョリーと私は、車にすがるようにして崩れ落ち、むせび泣きました。
私たちの生活を美しく輝かせてくれた日常の一部分を、わずか1時間半のうちに永遠に失ってしまったのです。
それを容易に受け入れることなどできるでしょうか。
しかし心優しいボニーは、この世での最後の足跡として、私たちに大きな愛を残してくれました。
実は、ボニーが亡くなる12日前から、マージョリーは抗うつ剤の摂取量を減らし始めたていたのです。
まるで、愛する『ママ』が元気を取り戻すのをしっかりと見屈けるまで、旅立ちのときを待っていたかのようでした。
残された私たちにとって唯一の慰めは、ボニーの苦しむ時間が短かったことでした。
ボニーがいなくなった家の中は、空っぽの箱のようでした。
私たちの周りを元気に跳ね回り、長年にわたってこの家に活気を与え続けてくれた美しき者。
私たちはボニーを深く愛していました。
ボニーとの別れから2日後の午後5時。
むなしさと悲しみに支配された空間にいたたまれなくなった私たちは、ウィスコンシン州のドア郡へ5日間の旅に出ました。
旅の道中、犬を連れた人々に幾度となく出会いました。
その度に私たちは、愛犬家に慰められているように感じるのでした。
私たちが家族でお世話になっている主治医の先生は、老人がペットと触れ合うことのすばらしさを教えてくれたものでした。
診察室を訪れれば、先生は必ず『ボニーは元気?』と私たちに尋ね、私たちはボニーが与えてくれる幸せを語りました。
愛するボニーを失った私たちは、75歳と80歳という高齢であっても、再び犬を飼うべきだろうかと先生に相談しました。
すると先生からは、迷いのない答えが返ってきました。
『ええ、もちろんですよ。これからも犬とともに生きるべきです』
もちろんボニーの代わりを務められる犬などいません。
しかし私たちは今、かわいいゴールデンーレトリバーの子犬を新しい家族として迎え、楽しく暮らしています。
人々はよく私たちに、若々しくいられる秘訣は何かと尋ねます。
私たちはその度に答えるのです。
『愛犬たちのおかげですよ!』と。
ボニーは神様が私たちに届けてくれた、素晴らしい贈りものでした。
人生の大きな喜びを得ると同時に、神様がくれたこの世界を、ボニーのおかげでより深く愛することができたのですから。
『犬がくれたたいせつな贈りもの』より
犬と暮らすと毎日を楽しく過ごせることは確かですが、自分が高齢になった時に愛犬を残して先立つことを考えると飼うことを躊躇するでしょう。
大型犬が好きでも引き取ってもらうことを考えると、もっと難しいかもしれません。
愛犬と死ぬまで一緒に楽しく暮らせるような世の中にしたいですね。
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